[ 投稿日時 ] 2025/3/29 13:55
[ カテゴリ ] 振り返りの記録
月曜日から金曜日までお休みを頂戴しておりご迷惑をおかけしました。
息子の中学の卒業旅行ということで、北海道へ行ってきました。
息子の希望で
「スノーボード&グルメの旅」って感じでしょうか?
そちらはまた追々、投稿しようかな。
さて、今週も社会人の振り返りをご紹介します。
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
第二回 【直心寮(1997~1999)】
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ビジネススキルが乏しい・・
という現実に気づかされるも、比較的、順風満帆?に進みだした社会人生活。
特に大きなストレスを感じることなく、(アル中の上司対策を除く)
日々が過ぎていきました。
気持ちにちょっとしたゆとりができたのかな・・
「フットボール、社会人でもやろうかな・・」
そんな思いに。
ちょうど、その頃、大学のアメフトの同期のお誘いもあって、
社会人リーグ(現在のXリーグ)のチームに見学に行きました。
1部リーグのチームということもあって、
アメフトが決して優秀ではない、自分が・・との思いもありつつも、
せっかく誘ってもらったので、ということで入部しようと心に決めてました。
ただ、そんな時に、阪急グループのチームである
「阪急ブルーインズ」
に所属しておられた、大学アメフトの大先輩、平山先輩が
突然、僕の寮までお出でになられました。
自分の後輩がグループ会社に入社した。
そんな情報を掴まれたのでしょうね。
寮の近くにお住まいだったということもあってか、トレーニングウェアを
身にまとい、ランニングでこられた姿は今でも忘れられません。
「越野、一緒にアメフトやろうや!」
それだけでした。
後に知る、平山さんの熱さ、そして人を惹きつけるカリスマ性。
その時も、なぜか心惹かれるものがあり、ブルーインズに入部することを決めました。
後に回想すると、ブルーインズは自分の生活に大きな影響を与えるものとなりました。
もしブルーインズに入ってなければ、もしかしたら会社も辞めてなかったかもしれない・・。
そうなれば、今の友人とも、強いては自分の今の家族にも出会えてなかったかもしれない・・。
そう思うと、平山さんの存在は僕の中では偉大で、
今でも感謝の気持ちでいっぱいです。(ご本人からすれば単なる、後輩の一人だと思いますが・・・)
そんな動機を経て、入部した阪急ブルーインズ。
当時は2部リーグ(2ブロック制)の中位ぐらいのポジション。
リーグ全体で見れば10番手ぐらいのチームだったと思います。
後にクラブチームとして門戸が開かれますが、当時はグループ企業の社員のみで、
形成されるチームでした。
練習はというと、メンバーの多くが不定休の百貨店勤めだったため、
平日の夕刻に行ってました。
場所は昔の江坂カーニバルプラザにあるグラウンド。
そこに、がんばって早く仕事を切り上げ、スーツ姿で集まってくるわけです。
練習の開始には2、3名でも、きづけば20人以上のメンバーが揃ってくるわけです。
同じグループ企業内のメンバーということで、非常に結束力が高いチームだったと思います。
また、僕の入部した年は同期メンバーが多く、また、学生時代1部でプレーしていたメンバーも
多かったせいか、チームの側からすれば「新人豊作の年」だったと思います。
学生時代にはコーチもいて、マネージャーもいて、いわば全てがお膳立てされた
フットボール。
自分が与えられた責任を何とかして果たすことに全力投球をしていました。
ただ、その江坂のグランドで出会ったブルーインズのフットボールはまったく別のものでした。
フルタイムのコーチがいるわけでなく、全て選手が考え、そして実践するフットボールでした。
それが良いか悪いかの議論はさておき、とても新鮮な環境でもありました。
また、新人であっても、常に意見を求められ、その意見を尊重してくれる。
そんな風土があったのは「ブルーインズのチームが持つ歴史と温かさ」だったと今になって思います。
さらには、学生時代はライバルとして戦った相手と社会人になって同じチームでプレーできる。
そのようなチームに魅力を感じ、どんどん惹き込まれていくようになりました。
今日はこんなところで、
せっかくの回想録なので、
仕事のことと並行して、フットボールのことも綴っていこうかなと・・。
最後まで「無理のない程度」でお付き合いくださいませ。
[ 投稿日時 ] 2025/3/17 16:01
[ カテゴリ ] 振り返りの記録
ヤバい。。毎週、土曜日定期更新を目標に掲げながら早速にサボってしまってました・・
こういうところですよね。大切なこと。
本日は、第二回の更新となります。
(この記事は2015年のブログを転載したものになります)
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過去の記事
第一回 社会人生活の振り返り 【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】
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パソコンがまったく使えない・・・。
そんな前途多難の中、始まった社会人生活。
日々の仕事はひたすらパソコンと向かい合って
通関書類の作成。
そして税関検査の立会い。
不思議なもので、毎日、多くの時間をパソコンと向き合ってると
タイピングも早くなっていくものですね。
今、こうやって高速で話をするかのようにブラインドタッチでスムーズに
タイピングできてるのはこの新入社員時代の学びの恩恵といっても過言ではありません。
先輩社員に恵まれ・・・。
いや、確かに恵まれていたのですが、唯一厄介な存在が・・。今だから暴露できますが・・。
U係長。
酔拳を使う猛者!
冗談はほどほどに。
まさしく、あれは「アルコール中毒」だったんだと思います。
顔を赤らめて仕事をしてることしばし。
よく上司に注意を受けたこともあったのですが、上司も注意しきれない理由があって。
仕事が出来るんですよね。
あの人に救われた通関業務、数知れずだったと思います。当時は。
グッと我慢し、そのU係長に仕えていたのですが、
一度だけオフィスでキレたことが。
「酔っ払って仕事する人と一緒にできませんよ!!」って。
思わずシーンとなりましたね。
本来、そんなことがあれば、とんでもない仕打ちを受けそうなんですが、
想像に反して、結構、U係長から好かれていたようです(笑)
後で出てくる寮に晩方、いきなり酔っ払った姿で現れたときは驚愕でした。
そんな人間関係を抱えながら、送った新入社員時代。
幸いにも通関業務というのは税関あってのお仕事なので、ある程度
時間が決まってました。
そのため、比較的早い時間に仕事を終え帰路につく日が多かったように思えます。
そして、実家(島本町という大阪のはずれ)と六甲アイランド。
ちょっと通勤がしんどい・・
ということもあって、会社の寮に入ることになりました。
西宮。阪神競馬場の近くですね。
「直心寮」
と言われる会社の寮がありました。
よく、「まごころ寮」なんていわれることがありましたが、
違います、よく見てください。
「じきしんりょう」
と呼びます。
そこはまさしく昭和な雰囲気で、
寮母さんがおられ、いつも美味しい料理を食べさせてくださいました。
ボリューム満点の料理は食べ盛り?の僕にとっては最高のものでした。
そこで生活を共にし、生涯の親友とも思える2人との出会いがありました。
竹内 剛
石塚 康一郎
あとでこのサラリーマン生活を振り返ったとき、この会社で得たもの
で一番大きかったのはこの2人を含めた仲間だと今でも思ってます。
学生の延長のようなノリでアホなことをいっぱいしました。
アメリカに一緒に旅行にも行きました。
そして、マジメ君な僕は会社と寮の往復。
寄り道できる環境になかったってのが正直なところですが。
いつも寮の談話室のソファーにふんぞりかえって、
彼らの帰宅を待ってました。
そして、遅くに帰宅した彼らと一緒に、会社であったことや、
プライベートなことを夜遅くまで語らう日も少なくありませんでした。
気づけば、揃ってうたたねをしてたこともしばし。
同期の2人以外にも、
先輩、後輩と過ごす日々は面白おかしく、今思えばすごいよい環境に
いたなあ~って思います。
今は残念ながら、その寮はありません。
一緒にみんなで記念撮影でもしておけば良かったなあ~って思います。
このご時勢。多くの会社が寮などの資産を売却する傾向にありますが、
寮という存在が目には見えない大きな価値を生み出す場所で
あるということを訴えたいですね。
今日はこんな感じ。
次回は僕のその後、20年近く関わることになる、
「ブルーインズとの出会い」
について。
[ 投稿日時 ] 2025/3/8 12:13
[ カテゴリ ] 振り返りの記録
何かにいざなわれるかのように、自分が書いた過去のブログを読んでみました。
その中で、とても興味深く、そしてのめりこんで読んだのが、
自身が社会人になってからを回顧するブログ。
その記事自体は今から10年前の2015年に書かれたもの。
学校を卒業してからの軌跡がつづられています。
決して、褒めれられた文章でもなく、人目に触れると恥ずかしさもあるのですが、とても自然体で書かれているんです。
今、ブログを書いていても、どうしても見られ方だったり、体裁だったりを気にしている自分がいます。
でも、当時書かれたものは、本当に自分に対して素直で、今振り返って読んでもすっと心に落ちてくるし、当時の光景がよみがえってきます。
今は、自社のブログですが、当時は無料ブログを使ってました。
せっかくなので、この自社ブログに加筆・修正を加えて転載をしていき、そして2015年以降の「振り返りの記録」も追加していきたいなあ~と思います。
更新頻度は毎土曜日を目標に行きたいと思います。
過去ログを見ると、2015年までで28回の連載になっていましたので、それなりのボリュームが出るかなと。
自己満足的な内容が多い。おそらくほとんど・・
そんな内容になりますが、興味のある方はぜひご覧になってください。
第一回は
【卒業~阪急交通社入社時代(1997)】になります。
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「海外で働くチャンスのある会社」に。
そんな漠然とした願いを持って入ったのがこの会社。
「トラピックス」などの商品で有名な旅行会社
ってのが一般的ですが、
この会社の「旅行部門」と並列してるある事業
「国際輸送部門」と言われる部に働くことに。
「人」を海外に送るのが旅行。
に対して、「荷物」を海外に届ける手配をするのが「国際輸送部門」って
説明でいいかな。
配属は「神戸支店」
一見、オシャレやんって思えますが、三宮などの繁華街ではなく、
六甲アイランドの海を一望できる港湾地区のターミナル(笑)
実はこの配属については、会社に感謝です。
「関西の出身」で「関西の大学を卒業」した新入社員は
基本的に最初は関東配属に。
当時、よくわからないシステムがありました(今はどうなんかな・・)
その中で、僕は唯一、例外的に関西に配属されたわけです。
学生時代に母親を病気で亡くして、父親が1人になるので、
できれば関西で。
そんな意向を会社が汲み取ってくれたのでしょうか。
本当にありがたい話でした。
さて、配属された部署の仕事の内容は
「通関業」
企業の荷物を海外に輸出入する際には税関に申告をする必要があります。
その税関への申告書類を作成するのが、通関業の仕事の1つになります。
つまりは内勤です。
最初に部署に配属されて教わったことが、
パソコンの使い方。
学生時代はアメフトばっかのいわば筋肉バカ。
今はスポーツだけでは社会も認めてくれない時代になってると
思いますが、当日はそんな人でも許されたわけです(笑)
レクチャーしていただいた先輩社員に
「マウスって何ですか?」
って質問した時に驚愕の表情をされたのを今でも覚えてます(笑)
そんな感じに、前途多難で始まった社会人ライフ。
一体どうなることやら・・・。
第二回に続く